陸前高田[岩手県]→ 宮古
釜石港が近づくと周りは赤茶けた屋根の家が目立った。それに港全体が赤茶
けているといった感じだ。そう言えば近くに精錬所みたいな建物が見えた。さて、
釜石の町に入ったということで、腕時計を見たら、午前11時20分であった。
製鉄の町、釜石を通り過ぎ、このタンク車で宮古(ミヤコ)市まで、詳しくは「宮
古橋」手前まで来ることが出来た。
午後2時10分、YHに着いた。木村旅館という。YHを兼ねた旅館と言ったところ
か。大部屋に通された。予約受付が実際に始まるまでにはまだ時間的に早か
ったので、それに旅館の女性責任者の「バスで20分位しか掛かりませんよ、
いってらっしゃい、海水パンツも持って行きなさい」という強い勧めもあって、浄
土ケ浜海岸へと一人で出掛けて行った。
ここの海岸は結構有名らしく、海水浴客で一杯だった。図らずも昨日に引き続き、
海水に触れることになった。荷物はYHに預け、身軽くなってバスに乗って来た
ので、昨日のような滑稽な心配をすることもなく、本日は全く気楽なものだった。
海水浴というと普通、砂と海水を連想するものだが、ここに来てみたところ、両
足で立てる海底は予想に反して浅い岩床であった。ちょっと勝手が違って、戸
惑ってしまったのか、油断していたためか、左足の親指、二ヶ所、岩の尖った
所を踏ん付けて切り傷を負ってしまった。
ここのYHでは夕食に何を食べたかは忘れてしまった。
思い出すのは「拓郎」というヘルパーがいた。あの歌手と同じ名前だ。髪は女
の子のように長く、また女の子のように綺麗に同じ長さに揃えてあった。後ろ姿
は全く女の子だ。女の子に見間違えられたとしても僕の所為ではない。男が女
らしく髪を装っている。それにしても、旅に出ると面白い人に遭遇するものだ。
第6日、おわり
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「旅について」・・・先人の声・・・・・・を聞いて見よう。
ひとはしばしば解放されることを求めて旅に出る。旅は確かに彼を解放してく
れるであろう。けれどもそれによって彼が真に自由になることができると考へる
なら、間違ひである。解放といふのは或る物からの自由であり、このやうな自
由は消極的な自由に過ぎない。旅に出ると、誰でも出来心になり易いものであ
り、気紛れになりがちである。人の出来心を利用しようとする者には、その人を
旅に連れ出すのが手近な方法である。旅は人を多かれ少かれ冒険的にする。
しかしこの冒険と雖も出来心であり、気紛れであらう。旅における漂白の感情
がそのやうな出来心の根底にある。しかしながら気紛れは真の自由ではない。
気紛れや出来心に従ってのみ行動する者は、旅において真に経験することが
できぬ。旅は我々の好奇心を活発にする。けれども好奇心は真の研究心、真
の知識欲とは違っている。好奇心は気紛れであり、一つの所に停まってみよう
とはしないで、次から次へと絶えず移ってゆく。一つの所に停まり、一つの物の
中に深くはひってゆくことなしに、如何にして真の物を知ることができるであらう
か。好奇心の根底にあるものも定めなき漂白の感情である。また旅は人間を
感傷的にするものである。しかしながらただ感傷に浸っていては、何一つ深く
認識しないで、何一つ独自の感情を持たないでしまはねばならぬであらう。真
の自由は物においての自由である。それは単に動くことではなく、動きながら
止まることであり、止まりながら動くことである。動即静、静即動といふもので
ある。人間至る処に青山あり、といふ。この言葉はやや感傷的な嫌ひはある
が、その真の意義に徹した者であって真に旅を味ふことができるであらう。真
に旅を味ひ得る人は真に自由な人である。旅することによって、賢い者はます
ます賢しくなり、愚かな者は、ますます愚かになる。日常交際している者が如
何なる人間であるかは、一緒に旅してみるとよく分かるものである。人はその
人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な
人である。人生そのものが実に旅なのである。
三木 清(みき きよし)著 「人生論ノート」から 旅について
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